登校児童の見守り活動とコミュニティ(2)

前回の記事「登校児童の見守り活動とコミュニティ(1)」で紹介したように、通学路に立って見守り活動をしている間、児童や通勤中の大人に挨拶をしたり、町の人びとの日常の朝の風景に触れたりしてきました。すると町にいつもと違う気づきがあり、町がなにか特別の風景に見えてきました。コミュニティが風景の中に存在していたのです。そして私はコミュニティの一人の存在になっていました。通学路に立ち、子どもや通勤の途上や生活する大人に出会う中で、私は目に映る町の人びとの「生活の一コマ」や「生活の営み」を意識するようになり、地域の人びととの関係性のレベルが、次第に高まったからではないかと思います。その関係性が日々蓄積されて、私の見る町の「心的な風景」が変わったのでしょう。

一般の勤労者の場合、親の代から住んでいる町でなければ、私たちの住んでいる町は朝出勤して、夜寝るために戻る単なるベッドタウンかも知れません。私はこの町に住み始めて30年になります。登校児童の見守り活動に参加するまでは、道路沿いの同じゴミ置き場を利用したり、門前清掃の日に会ったりする隣家の人たちを除いて、顔も知らない人びとが住む町でした。定年退職後の最近6年間は、1日の大半を自宅とその周辺で過ごすようになり、社協の太極拳サークルの活動に参加したり、町内の幾つかの行事に参加したりして、顔見知りも少し増えました。

この町の人たちも今後さらに高齢化して、介護が必要になりデイサービスに通い、さらに高齢者施設に入居する人たちがいるでしょう。そのような社会にあって、現在の高齢者の引きこもり傾向は、「生きがい」や「生活の質」の観点から社会的な課題です。高齢になるに従って体が弱る中で、住民同士の友人関係や支え合う関係が必要でしょう。例えば「百歳体操」や認知症カフェのような支え合いもあります。制度的な支援で支えられる前の段階として、町の高齢者が地域社会に積極的に参加する機会があり、町の住民として互いに知り合っていれば、さまざまな支え合いや支援の仕組みに入りやすくなるでしょう。それは男性の方が女性よりも必要性が高いように思います。

住民が抱くコミュニティの感覚は、男性と女性の間で異なるように思います。女性は一般的に社交的でおしゃべり好きなことが多く、町の中で井戸端会議(今は井戸がないので道端会議)を楽しむのは女性が多いでしょう。また母親たちは自分の子どもを通して、地域に人的ネットワークを持っています。学校やスーパーや日常の買い物などの情報は、口コミを通して女性たちに共有されているでしょう。私が参加する太極拳のサークルでも9割以上が女性であり、男性は完全にマイノリティです。このように一般に女性の方が地域社会との関係性がより強いと思います。だから高齢男性が参加しやすい地域コミュニティが必要だと思うのです。

男性高齢者が地域社会に参加する機会として、登校児童の見守り活動が大いに有効でしょう。なぜなら児童の通学路で子どもたちに、「おはよう」と挨拶する「役割」を地域社会で獲得できるからです。そして「行ってらっしゃい」という気持ちで学校へ見送ります。さらに町の大人の通行人にも、同じように挨拶できれば良いのですが、人の心は繊細なもので「心のバリアー」をつくり、自分を閉ざす心理があります。互いに知らないのに、自分が挨拶すると相手はどう反応するだろうか、という心の迷いがあります。しかし他者に「心を開く」という信条の実践として、「自分から挨拶する」ように私は心がけています。その結果、普通は挨拶が返ってきます。さらに何度か挨拶をしているうちに顔見知りになります。

「登校児童の見守りおじさん」として地域デビューをすれば、子どもたちへの挨拶はあたりまえになり、町の人たちには「ご苦労様です」と感謝されます。家にひきこもらず、このように町の人びとから認知されれば、地域社会により溶け込みやすくなるし、さらに支え合いの輪の中にも入りやすくなるでしょう。登校児童の見守り活動は地域によって、小学校や町内会や社会福祉協議会が担当をしているので、希望者として手を挙げれば良いでしょう。高齢男性の登校児童見守りおじさんが地域の挨拶運動を主導して、コミュニティづくりの地域の文化が発展するのは夢ではないかも知れません。(中島正博)

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