西日本豪雨被災から復旧へ半年間のまとめ

西日本豪雨の被災と復旧の出来事を合計9回のブログ記事に連載してきました。災害直後から半年の間に、地域の復旧・復興の回復、そして被災の検証に基づいて今後の災害への備えが、どのように議論されてきたのか、今回は第1回から第9回まで半年間を通して纏めてみます。被災直後から通して見ると復旧途上の流れが分かりやすいと思います。文中の(…)には私の意見を加えました。

第1回の被災後の第1週:報道記事はほぼ全てさまざまな被災の状況を伝えるものでした。断水は20万戸に亘り、交通は寸断され通勤は混乱し、学校は休校、物流も寸断され、スーパーは品薄になり、浸水による被災住宅は増え、孤立する集落も現れました。被災後に山陽線を含むJRの在来線9線が運休しました。(山陽新幹線が6日の被災後8日の始発から通常ダイヤの運転を再開したことは、代替鉄道が存在する強みを強く実感しました.) 泥かきや清掃のボランティア活動は被災直後から12月まで被災各地で続けられました。(災害ボランティアの活動は阪神淡路大震災以来、災害時の助け合いの文化になりました.今後も災害時の復興において、被災地の力強い回復力になるでしょう.) 行方不明者の捜索や救助活動、そしてライフラインを含む復旧活動が長期にわたり続けられます。

第2回の被災後の第2週:各地の被害の詳細がさらに判明すると同時に、水道や幹線道路などライフラインの復旧が続きます。鉄道の復旧は時間がかかるので、公共交通をバスと船で代替する緊急輸送が始まりました。(被災時のバス輸送や海上輸送のメリットが改めて分かりました.今後の災害に備えて非常時の緊急輸送計画に必須の存在でしょう.) しかし通勤時の道路は渋滞し、通勤通学に市民は疲労しました。(災害時の渋滞を避けるために、事業所ではテレワークの備えが有効かも知れません.) 広島県はみなし仮設住宅の受付を始めました。

第3回の被災後の第3週:政府によって激甚災害に指定されました。水道の断水は広島、岡山両県で5016戸に減少しました。(最重要ライフラインの水道の断水に際して、地域の井戸利用が有効であることも、今回の災害で再認識されました.) そのほかのインフラについても懸命の復旧活動が続けられます。この頃、例えば医師、女性警察官、燃料会社、大学、消防団の女性消防隊、写真師会、警備会社など、さまざまな職業や技術を持つ人々が被災者を側面支援する活動が報じられました。(ボランティア活動の文化が盛んになるに伴い、被支援者と支援者をマッチングする仕組みが整えば、市民の助け合いによって災害からの回復力がさらに高まると思います.)

第4回の8月:被災後3週間を経過し、第4週間目の8月は鉄道の復旧が始まりました。駅と駅の間の区間で数えると、復旧区間は8月に7区間、9月に9区間、10月に7区間、その結果山陽線の全線が開通、11月はゼロ区間、12月は3区間、その結果、福塩線と呉線の全線開通は12月です。芸北線は2019年秋に全線開通の予定です。

8月には、広島市の避難指示を受けて、市が指定した避難所に逃げた人の割合が、対象住民の3.4%であったことが分かり、防災情報の受け止め方と発信のあり方が問われるようになりました。(その結果、「早めの避難」を促進するための議論が、災害後1年を経過した現在も続いています.)

被災者の生活に関わる公営住宅の募集、仮設住宅の建設・完成が始まりました。被災地では被災したスーパーが、軽トラによる移動販売を強化し、移動郵便局も開設されました。(このように災害時に移動式の店舗や住民サービスが充実すれば、住民が被災地で生活を続ける大きな助けになると思います。断水時の給水車やガソリンスタンドに代わる燃料トラックも同様です。発想の転換により、災害時に困難な人の移動を減らせる効果があるでしょう.)

第5回の9月:鉄道が9区間復旧し、被災後1カ月を経て都市圏の通勤通学の日常が戻りました。被災住民による仮設住宅への入居申請や入居が被災各地で行われました。被災者ケアを行う「地域支え合いセンター」の最初の拠点が熊野町に開設されました。被災者の生活や心の回復のために、一人ひとりに寄り添う長期のケアをします。被災のさまざまな側面について、検証をする記事が9月から始まりました。9月は「早めの避難」の必要性について検証しました。

第6回の10月:鉄道が9区間で再開しました。広島県内の山陽線はすべて復旧し人の波が戻りました。国が補助をする被災した道路や河川の復旧事業は、広島県内で約7千カ所に及びますが、県内の業者が不足して1割の760件は測量設計さえも未着手のため、県は業者の全国公募をしました。業者の不足は損壊家屋の解体にも遅れをもたらし、被災地の復興に影を落としました。

広島県内の避難指示はすべて解除されました。被災から3カ月が経過した10月6日には、広島と岡山県で約400人が避難所で生活し、仮設住宅に277世帯が生活し、みなし仮設住宅や公営住宅に約4200世帯が入居しました。ボランティアセンターはピーク時に広島県内19市町22カ所で開設され、その後順次閉鎖されて残る尾道市、熊野町は10月下旬に閉鎖し、広島市安佐北区、呉市、福山市は10月末で閉鎖されました。竹原市、広島市安芸区、三原市、坂町は10月以降も継続しました。

復興支援のイベントも行われました。例えば、復興みこし、犠牲者を悼む復興祈願、復興への思いを託す秋祭り、被災地支援のバザー、復興支援の募金やフードフェスティバル、被災した山林道の整備、そして被災者の子どものケアなども数々行われました。防災のための施策や行事なども多数行われました。連載記事「よみがえる団地」と題して、壊滅的な被災をした広島県熊野町の団地「大原ハイツ」の住民による、町の再生を目指す活動が紹介されました。連載「被害拡大のなぜ」と題する7回の検証記事が、西日本豪雨災害の特徴を示しました。

第7回の11月:豪雨被害が集中した7月6~8日の間に、広島県警が受理した110番は時間帯によっては繋がらないパンク状態が続き、広島市消防局も対応しきれない件数の119番を受理していたことが明らかにされました。(パンク状態を緩和するために、今後の災害に備えて何らかの改善が可能かも知れません。地域コミュニティの相互協力が盛んになれば、「直ぐに警察や消防に連絡」、という住民の行動様式が変化する可能性があります.)

広島市の避難勧告が解除されて、広島市内の避難所生活はゼロになり、広島県内の避難所の避難者はゼロになりました。4カ月目の11月6日には広島・岡山で8人がいまだ行方不明でした。被災した全半壊の家屋は公費で解体できますが、業者の人手不足のために解体済みは広島県15市町で申請した767件のうち2割に止まり、解体の遅延は被災者の生活再建に影響を及ぼしていました。

広島県内に残された3つのボランティアセンターのうち、広島市安芸区は11月30日、三原市は12月1日に閉鎖しました。被災して休業していた幾つかの店舗が閉店しますが、被災地域の復旧にはマイナス要因です。民間レベルで被災者を支援するさまざまな活動が11月にも行われました。

熊野町川角の団地「大原ハイツ」の被災者団体「復興の会」による地域再建の活動が報じられました。3回連載の検証記事が「よみがえる団地」と題して、この団地住民が模索し悩みながら、復興を目指して活動を進める様子が紹介されました。被災者救助の現場を検証する「西日本豪雨 救助者が見たあの日」と題する連載記事も始まりました。

第8回の12月:鉄道は福塩線の全線が161日ぶりに復旧しました。 呉線も全線が163日ぶりに復旧しました。県内に残る唯一のボランティアセンターの広島県坂町の拠点が、12月8日に活動を終了しました。広島県呉市市原集落の「避難準備・高齢者等避難開始」が解除され、県内の避難情報がすべて解除されました。広島県内で初めての災害関連死が東広島市で3人認定されました。

被災者の生活再建を支援する「広島モデル」が、県と13市町が設けた「地域支えあいセンター」によって確立されました。この支援は孤立を防ぐコミュニティづくりも一体的に進めます。被災者の住宅の建て替えや補修に必要な資金の融資相談や、大きな災害に遭ったときのローン減免制度も紹介されました。復興や支援のイベントも催されました。各被災地の商店街が復興をアピールし、福島県のフラガール、EXILE、広島交響楽団などが被災者を励ましました。

12月は被災と復旧の「検証」記事がさらに増えました。広島県内の市町が指定した避難施設のうち82カ所の被災が判明しました。(今後の災害に備えて避難施設の指定を見直すことが必要になります.)県立広島大の防災研究センターが、14項目にわたる提言をまとめて県知事に提出しました。政府の中央防災会議の住民避難対策のワーキンググループは、従来の行政主導から住民が主体になる対策へ転換を求める報告書案を固めました。(災害避難時の行動主体は、原則として「自助→共助→公助」であることの再確認です.)また同グループは、行政の情報発信の在り方を見直し、大雨防災情報を危険度で5段階に区分する方向性も確認しました。今後の避難情報の発信に生かされます。

第9回は年が明けて1月:広島県内で三原の3人と竹原の2人が災害関連死と認定されました。1月は「検証」が豪雨災害の関連記事の大部分を占めました。広島県教育委員会が水害に力点を置いた防災の新しい教材を作成します。また広島県知事は「避難の文化」を醸成することと避難に関する教育の必要性、岡山県知事は被災地のコミュニティ再興の重要性、愛媛県知事はダム下流域の不安解消を急ぐこと、砂防学会会長は被災の記憶を引き継ぐ重要性を強調しました。(「防災教育」、「避難の文化」、「被災地のコミュニティ再興」、「被災の記憶」などは住民が防災・減災・復興の主体であることを意味しています.)

西日本豪雨での避難行動などを把握するために、広島市が17小学校区の住民1700人を対象にアンケート調査を実施し、その結果が中国新聞に掲載されました。避難した理由は、雨の降り方などで身の危険を感じた(24.2%)、家族に避難を進められた(12.1%)、近所の人や消防団員たちに避難を進められた(9.5%)、避難指示(6.3%)‥などでした。(避難に際して地域コミュニティの大切さが分かります.)

検証の連載記事「揺れる地域」が掲載されました。被災地で家屋の解体が進まず、住民が仮設住宅・みなし仮設・公営住宅などへ移り住み、農地の復旧の見通しが立たず、移住で人口が減少するなど、地域社会の維持が困難になり復旧が進みにくい現状が現れています。(地域コミュニティを回復するには、今後のきめ細かな支援が求められます.)広島市は、防災情報メールを市民に送る際、小学校区単位での発信に変えることにしました。早めに避難するため住民同士で声を掛け合う取り組みが広がっています。(中島正博)

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