街区公園の再生活動やコミュニティづくりは広島市のどんな町で行われてきたのでしょうか。広島市の町の様子を少しですがご覧ください。多くの読者の皆様には馴染みがないと思いますが、どんな町か少々イメージを持って頂くために、敢えて地名や写真を少々紹介します。連載第3回以降は公園について掲載するので、その周りの町をイメージするのに役立てばと思います。私が訪問し聞き取りをした49の町の大多数は住宅地域でした。しかし対照的に商業地区やオフィス街が支配的な町もありました。前者の例としては丘陵地に開発された西区の井口台や南区のニュー旭が丘などの住宅団地があり、後者の例としては中区の河原町、橋本町、大手町などの戸建てを含むマンション・商業地域でした。その中間として住宅地域でありながら、商業地域を含む西区の庚午や大芝など多くの地域があります。しかし住宅地域といえども商業地を含まないことはまずないので、商業施設や事業所の地区が少ないか多いかが地域を特徴づける大きな一つの要素と言えるでしょう。
すべての町はまさに十人十色とも言うべき個性を備えています。町を特徴づけるものとして、他にもいろいろな要素があります。住宅地域の中でも、例えば広島市なので被爆で焼けず戦前からの人びとが住む町(中区南千田西町)、丘陵を開発したために坂の多い住宅団地(安佐南区高取北)や海面の埋め立てでできた平地の町(佐伯区海老山南)などがあります。またマンションなどの集合住宅の多い平地の町(中区平野町)と全くない住宅団地(佐伯区杉並台)もあります。さらにマンションの多い町でも転勤族住民など流動人口の多い町(中区橋本町)と定住人口の比較的多い町(中区平野町)があります。
住民同士の交流に目を向けると例えば、戸建ての旧住民とマンションの新住民の交流がほとんどない町(中区橋本町)と、両者が交流しコミュニティが育ちつつある町(中区光南町)などの特徴があります。このように町の「顔」は人間一人ひとりの顔や個性が異なるように多様です。
広島市は河川デルタの平地が狭いため、丘陵を開発してできた住宅団地が多数存在します。古い団地としては1968年に完成した南区の丹那新町があり、1980年前後にできた団地が比較的に多く、新しい団地として2000年に完成した佐伯区の海老山南があります。団地の完成と共に30才前後の人たちが一斉に入居して、年月を経ながら団地住民は同時に高齢化します。子供は親元を離れ、次第に若い世帯が少なくなり、老夫婦のみの世帯になり、さらに独居老人世帯になり、空き家が出現し始めています。坂の多い丘陵の団地の場合、日常の移動や交通に不便を感じて、平地のマンションに引っ越す高齢者家族も現れます。このように住宅団地は生まれて老いるサイクルを一つ経て、少しずつ若返ることが出来るかどうか、という岐路に今立たされています。高齢化した近隣の住民が孤独に陥らないよう、空き家を使ってコミュニティカフェ(佐伯区美鈴が丘)を営む動きがあります。若い人を呼び込むいろいろな工夫もされています。
住宅団地では人口がゼロの時代から家が建ち始めて、互いに見知らぬ人々が異なる土地から移り住みます。住宅団地の開発は地域的に境界をもち、まとまった広がりを構成することが多いせいでしょうか、団地の宅地区画がほぼ満杯になる過程で、町内の安心・安全や楽しみなど共通の利益を実現するために、住民は一般に町内会などの地元団体を設立し、協力してコミュニティを形成しようと努力します。しかし住宅団地ができた後に、リーダーシップや世話役の不在のために、町内会がまだできていない住宅団地も存在していました(安佐南区イトーピアや虹ヶ丘)。
私が訪問した町内会の地区の総世帯数は、140世帯(西区鈴が峰町グリーンタウン)から3600世帯(西区庚午北二丁目)程度までで、平均的には400から500世帯程度です。町内会に加入しているのはその内のほぼ100%から50%程度の世帯でした。ほぼ100%というのは丘陵地の住宅団地に多く見られました。平地では町内会加入率は低く、マンションが増えればさらに低下要因になり、例えば中区では50%前後の町内会が多くありました。その理由は、丘陵地を開発した住宅団地では近隣地域との境界的な空間があるために、町としての一体感があるためではないかと思います。逆に平地ではマンション住民や転勤族などの流動人口が多く、商業地区やオフィス街を多く含み、道路や交通が発達して移動性が高く、人びとの出入りが多いためではないかと思います。但し町内会加入率は広島市全体で年に1%くらい低下しているので、今ではもう少し低いだろうと思います。
次の連載第3回目は公園再生活動として、どんなグループがどのような活動をしているのか紹介します。