登校児童の見守りボランティア~ちょっと嬉しい経験

登校児童の見守りボランティアをしていると、私の担当交差点の通学路の児童の顔はほとんど覚えます。毎朝こどもの顔を見ながら「おはよう」、「行ってらっしゃい」、「行ってきます」と挨拶を交わしてハイタッチをしているからです。顔見知りになると話しかけてくる子供も時々います。まず「今何時ですか」と聞く子が多く、教えてやると、その反応も十人十色。「ありがとうございます」、またうなづくだけの子など。遊び心でじゃんけんを仕掛けてくる子もいる。「あの川に魚がいたよ」と報告する子。

通学路に立って子供たちと会話を交わすのは私にとって楽しいひと時です。もともと「地域のおばさん」たちと違って、私たちサラリーマン退職者のおじさんたちには、地域に知り合いは少ないのです。そのようなおじさんなので、地域の子供たちと挨拶をして、他愛ない会話を交わせるのは楽しいものです。これも一つの地域デビューの方法ですが、子供たちと知り合いになれる見守りボランティアはお薦めです。

数日前、昼過ぎから町内の集会所で太極拳の練習をしたその帰途のことです。私の見守りの定位置(通学路の交差点)の方角へ、練習が終わって通学路を自転車で帰宅の途中、集団で通学路を下校する子供たちに会ったので「おかえり」。毎朝の「いってらっしゃい」の後なので、自然に私の声が出ます。すると顔見知りのおじさんに会った子供たちからは、自然に一斉に「ただいま」。すると地域に知り合いが増えたような気持ちになる自分に気づきます。

さらに私の帰宅の道を進むと、低学年の顔見知りの男の子に出会って「おかえり」。すると男の子は帰り道の「公園の辺りに男の人はいなかった?」。不思議に思いながら私は「見なかったなー」。子どもは何か言いながら「いっしょに行ってよ」と私に頼む。私は最初気が付きませんでしたが、子供が気にしていたのはいわゆる「不審者」のことでした。「不審者、見たことあるの?何か話しかけてくるの?」と聞くと、「話しかけてこないけど、何度も振り返って見たりするよ」。

実は私の住む町にも「不審者情報」が時々学校からメールが送られてきます。昨今の時代、いわゆる「不審者」が多くなっているのは事実です。残念ながらこの町にも現れるようですが、悪意をもつ「本当」の不審者と、挙動が少々目立つだけの「普通」の人の区別も難しいのが現状です。しかし子供にはその見分けはつきません。

私は今来た道を後戻りするのは気が進まないし、子どもの話し相手をしながら、躊躇しましたが、根負けして「じゃ一緒に帰ろうかー」と来た道を子供と話しながら戻りました。子供は私に向って「お母さんにしかられる?」。その意味が分からず、私は「おじさんのお母さんのこと?」。私は何のことだろうと話していると、どうやら私の帰宅が遅れるので、私の母親に叱られることを心配してくれているらしい。「おじさんのお母さんはもう死んじゃったよ」、「何歳だったの」、最近年号が変わったからだろう「昭和?平成?」、私は「大正だよ」。「おじさんはどこへ行ってたの?」、「郵便局の近くだよ」、「それ僕のうちの近くだよ」などと、良くしゃべる子どもだと感心しながらおしゃべり。更に先に進むと、私がさっき会った下校児童の集団に追いつく。「あのみんなと一緒に帰ったら?」と勧めると、子供は「そうする、おじさんはもう帰っていいよ」。

私にとってはちょっぴり手間取ったひと時だったが、何だかニコニコする嬉しい気持ちを覚えました。この気持ちは何なんだろうと考えました。私が地域の子どもから、たまには「頼りにされる」おじさんとして、「認知」されたことかもしれないと、自分に都合よく解釈したのでした。これもコミュニティづくりの小さな一歩でしょう。人は誰でも他人から頼りにされると嬉しいものです。無垢で大きな可能性を秘めた子供であればなおさらでしょう。

私の見守り「定位置」には中学生も通るので、彼らとも挨拶を交わします。その中に丁寧に挨拶をする印象的な生徒がいます。先日は私服で自転車に乗った若者に、町で「こんにちはー」と言われて、印象的な制服の中学生を思い出し、私も挨拶を返しました。この町は私の生まれ故郷ではありませんが、町の小中学生と挨拶を交わすと、大人同士が礼儀で挨拶を交わすのとは、また異なった気持ちを抱きます。それは何故か興味深いのですが、はっきり言葉にできません。社会の「将来の希望」である子どもたちとの交流から、その希望を私自身が感じるのかもしれません。(中島正博)

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