私が「コミュニティづくり研究」を始めた経緯:住民参加型開発

今回は私がコミュニティづくり研究を始めた理由について紹介します。最初に地域コミュニティについて問題意識を持ったのは中学生の頃です。1~2センチ程度の積雪の直後に、私の実家までの100メートル余りの道の除雪を一人で思い立ちました。道(車が一台通れる位の幅)には片側に民家が並んでいました。私は除雪しながら、その恩恵を被るはずの隣家の人びとがそのうち現れて、協力してくれるのではないかと期待し始めました。しかし一人も現れませんでした。その時に近隣の住民は互いに協力し合うものではないか、という意識が生まれたのです。そんな些事がなぜか今に至るまで、長く記憶に残りました。そんな少年時代の経験が現在の問題意識に繋がっているかも知れません。

その後、学生生活を経て、最初に就いた職業は、私が中学生の時から目標にしてきた、発展途上国のための開発協力でした。諸々の開発調査の仕事を通して、私の問題意識の中心を占めるようになったのが、地域コミュニティを基礎にして住民の生活向上を図ることでした。途上国の多くの国では清潔な水を供給する開発事業が行われています。例えば、住民の居住地域に井戸を掘り、清潔な生活用水を開発する事業を実施して、遠い道を長い時間をかけて女性が水汲みに行かなくても良いようにするのです。開発援助を提供する多くの機関が水供給事業を実施しました。しかし水供給事業を実施した後、間もなく施設が劣化して使用できなくなる事例が沢山ありました。その理由は井戸を利用する住民がその維持管理をしないからでした。結果的にその開発援助が無駄に終わります。そんな失敗を見聞した後、水供給事業を行う際には、住民参加が必要であることを1980年代中頃にケニアで学びました。事業実施のプロセスで地域住民の参加を得て、事業完成後に施設を維持管理できる住民組織を地域コミュニティに作ることが次第に一般的になりました。つまり地域コミュニティを基礎にした開発の例です。

二つ目の例は農業用水を供給する灌漑施設の利用です。タイ国はコメの輸出大国です。チャオプラヤ川デルタがタイのコメ生産の最大の基地であり、1950年代以降に近代技術による農業水利開発が世界銀行の融資によって行われました。水源のチャオプラヤ川から農民の水田に至るまで大小の水路によって繋がっています。灌漑用水を水田に直接供給する末端の小水路から、農民たち自身が共同して平等に取水することが期待されています。そのためには末端水路を共用する農民たちが水利組合を形成して、不平等な「我田引水」にならないように、取水の時期や水量に関する取り決めに彼ら自身で合意して実行しなければなりません。取り決めをしてそれを励行するには、農民たちの「組合=共同体=コミュニティ」が必要ですが、それを形成するのは簡単ではなく、長い年月をかけて水利用コミュニティを創造する他ありません。それについて私が考えさせられたのは、タイ中央部の地域開発計画づくりの調査で1980年代末の頃でした。

その後、1990年代のメキシコパキスタンの農業用水管理の改革事業や、2000年代のフィリピンの植林事業などの研究を通して、自然資源を利用する住民(農民)コミュニティがその資源の利用管理に携わる重要性について、さらに認識を深めました。理論的な面からは、地域資源の共同利用に関する「コモンズ」の研究や、地域コミュニティと「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の研究などを通して、持続可能な社会を築くためには、地域コミュニティが必要であることを確信するようになりました。

また最近の日本の経験として、1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などにおいて、災害の直後は地域コミュニティが被災者救助の主役であったことが報じられました。災害時には先ず地域コミュニティの互助の役割が大きいことから、防災について「公助」の前に「共助」の必要性が強調されるようになりました。そして防災・減災、近年の高齢化社会における福祉、地域の環境問題、過疎化や住民生活に係るまちづくり、地域の防犯などの分野において、地域コミュニティを創ることが住民の「生活の質」を向上させるために必須であると考えています。

以上のような経緯で「地域コミュニティづくり」に関する経験や情報をこのホームページに蓄積し提供したいと思っています。それによって、今後のコミュニティづくりをより確実に実現する知見が得られれば幸いです。(中島正博)

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