農村生活体験の「お試し住宅・溝口889」を開始

私は広島県の旧山県郡芸北町溝口、現在は広島県北広島町溝口に生まれ、中学生まで溝口に住んでいました。高等学校は自宅から通えるところにはなく、遠くの町に下宿して高校へ通学しました。

僕の青少年の頃は、日本は農業国から工業国へと、大きく舵取りをしていました。三反(0.3ha)百姓の小さな農家は、日本では多くの兄弟が生活することはできません。それで農家の次男以下は、工業地域の会社に就労して働く、というような政策が進められていました。中学校を卒業した時、岐阜や倉敷の紡績工場へ就職する旧友を、「万歳、万歳!」と言って送り出した記憶があります。その当時は何が何だか分かりませんでしたが、とても嬉しかったのでした。

僕は小学生時代にとても悲しい経験がありました。それは、小学3年生の時に、担任の先生の就任の発令は出たものの、「田舎は嫌だ」と言う理由で、担任の先生がいなかったことです。そこで、その年の9月まで複式学級で教えていただきました。9月に就任して来られた先生は素敵な人でした。僕たちを親身になって指導してくださいました。「どしたん、分からんでもいいんよ。分からんかったら聞いたらええんよ。」、「先生と、一緒にやろうね。」と声を掛けて下さいました。

僕が将来の進路を考えた時、「そうだ学校の先生になろう。」と思ったのは、この小学生時代の体験があったからです。父は、酪農とトマト栽培の専業農家でした。ハウス40棟に約2万本のトマトを栽培して販売していました。その父に「僕は農業をしないで、教員になりたい。」と言いました。すると父は、「そうじゃの、農業は限界よ。あんたが思うようにせえやー。」と言ってくれました。

僕は、教員になりました。教員と市職員の38年の生活を過ごし、「やっぱり、僕の育った故郷の芸北に帰って農業をしたい。」と思うようになりました。そして芸北の溝口に帰りましたが、溝口の集落の常会では、「はあ、ここらあ、限界集落よ。わしらは、このまま限界じゃけー、限界よ。」などと、暗い話題ばかりでした。また、中山間地域存続のための北広島町役場の施策に協力する役員候補が地元にはいない。「町役場は役員を出せ出せ言うても、動ける人はおらん。はぁ、北広島町を脱退せにゃあやっていけん。」などと、会合のたびに後ろ向きの会話ばかりでした。

そこで、今日一日だけでも何とか皆と明るい会話ができる場が欲しい、さらには溝口へ来る新たな移住者を招くきっかけにしたいと考えて「お試し住宅」なるものを作りました。目の前だけでも、少しでも変わった集落にしたい、との思いでこの「お試し住宅」事業を始めました。

農村生活体験をしてみたいと思われる方は、ぜひ、今年10月から始める「お試し住宅」を活用して欲しいのです。そして、「限界集落」に新しい息吹を入れて欲しいのです。(上田義文)

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