新型コロナ感染増大の第4波が来たようです。ゴールデンウィークの始まりと同時に関東と関西に緊急事態宣言が発出されました。テレビのニュースでは、人流の日毎の変化や大阪の医療体制の危機を伝えています。政府や自治体の度重なる外出自粛の要請にもかかわらず、都市部の繁華街や観光地の人流はまだ多く、感染者を減少させるには不十分な状態が続いています。このホームページの前回の記事では、コロナ禍における外出の自粛と自然災害時の避難行動を重ね合わせました。今回それをさらに考えたいと思います。
自然災害時に住民の避難行動が少ないことは前回紹介しました。その理由として挙げられるのが、心理学で用いられる「正常性バイアス」です。正常性バイアスとは、安全であった人びとの日常の経験そのものが、通常とは異なる危険な状況が現れた場合には、「避難する、対策を講じる」という正常な判断の妨げになるということです。近年頻発する自然災害の後のインタビューに、「こんな災害は経験したことがなかった」と、被災者が決まって答えることは、皆さんの記憶にもあるでしょう。「経験したことがなかった」のと「災害に備えなかった」のは、正常性バイアスが人間の心理に一般的な傾向であることを結果的に証明しているようです。
この正常性バイアスの傾向は、近代化が進み現代文明が発達するにつれて、私たちの生活の中で拡大しているかも知れません。現代社会は、人間に不都合な自然現象を避けるよう強く志向します。便利なこと、効率的なこと、快楽的なことを人工的に実現して、「豊かな」生活を実現しました。その結果、自然現象は人間がコントロールして、自然を支配的に利用できる、という無意識な感覚を生みました。また私たちは天候や害虫などの自然をさほど心配しなくても良くなりました(例えばドーム付き野球場やゴキブリの侵入)。「便利」な技術によって日常が守られています。そのような日常の経験は、自然に変化(新型コロナウィルスの出現)があっても、その危険に対して必要な備えをしない、という正常性バイアスの傾向を促進しているように思います。近年は豪雨や大地震などの激甚自然災害が増加して、とりわけ現在は新型コロナウィルスという現世代は経験しなかった病原体が出現し、正常性バイアスの弊害もあり被害が大きくなっています。
そのような自然災害に対処し被害を軽減するために、正常性バイアスの危険性を可能な限り克服することが求められていると思います。誰の心理にもある正常性バイアスは克服できるのでしょうか。そのような疑問を私が抱えている時に、ある事件がヒントを与えてくれました。それは今年4月下旬のNHKニュースで、昨年11月に都内のバス停で殴られ死亡した、路上生活者の大林さん(60代女性)の報道の時でした。大林さんを知る広島の学校のかつての同級生や、所属していた劇団関係者の思いは「彼女(大林さん)は私だ」でした。つまり「自己同一化」です。コロナ禍の中で失業して経済的に困窮し、路上生活に追いやられた大林さんの運命が、自分たちの人生に直観的に重なったのでしょう。自分たちも同じ運命をたどったかもしれない、と感じられたように私は思いました。正常性バイアスは、潜在的な感染の危険の中でも、感染したことがない自分の経験によって、必要な感染防止対策を妨げる可能性があります。大林さんの友人のように自己同一化すれば、「感染者は私だ」と感じることによって、感染しなかった日常の自分の経験に惑わされず、外出自粛などの感染対策ができるのではないでしょうか。人間関係が希薄化し分断化する現代において、大林さんの友人のように他者と自己同一化する人間の感性は弱くなっていると思います。そこに正常性バイアスの心理的傾向が優勢になり、新型コロナウィルスのつけ入るスキが、人間社会に広がっているのかも知れません。
コロナ禍では、政府や自治体からは外出を「自粛」する訴えが、ニュースによって私たちの意識の外から繰り返し伝えられています。しかし私たちの行動の主は、意識の外からの声ではなく、自己の内の意識です。もし感染者と自己を同一化する感性が優勢になれば、政府や自治体の声に自分が従うのではなく、自分の行動をみずからが選ぶ意識が強まると思います。そもそも私たちが他者から「自粛」を求められるのは、「自ら(みずから)」行う意思と矛盾があるように思います。三密を避けるのは必要ですが、三密回避を政府や自治体が市民に「自粛」として求めることに、多少の違和感があります。
コロナ禍収束の条件の一つとして、人びとが互いに繋がり自己同一化の感性が広がり、市民が正常化バイアスの危険に気づき、市民と政府・自治体の関係が矛盾なく成立することが必要ではないかと思いました。三密防止や消毒やワクチンは重要な「見える」パンデミック対策ですが、正常化バイアス、自己同一化、市民と政府・自治体の関係などの「見えない」ものが、「見える」ものをより効果的にするのではないかと思いました。(中島正博)