コミュニティにはさまざまな役割があると思います。その役割は限りなく多いように思います。「このまえ太極拳の練習に来なかったけど元気?」と聞かれたり、「登校の時におじさんの姿を見なかったら心配」などと言われたりします。スポーツジム通いを二週間休むと「久しぶりですね」と呼びかけられます。人が何らかのコミュニティに繋がっていると、このようにコミュニケーションが生れます。大切なコミュニティであれば、その繋がりを維持したいと思います。他人をあまり気にかけていないような現代社会に生きていても、他人の姿は無意識に視野に入っていて、お互いの存在を気にしているものです。コミュニティに繋がっていることについて、個人の日々の生活の観点から考えてみました。
退職高齢者の生活は比較的自由です。自由だから惰性に流れることがあるでしょう。そして自分の周りには他者やコミュニティが存在します。コミュニティとの繋がりがあれば、自分が「わがままな自由」に陥ることを回避できます。さまざまなコミュニティには自己を律する働きがあると思います。私が児童の見守り活動で通学路に立つことはコミュニティや他者(学校、児童、地域住民)への責任です。他者への責任があるので、今日は活動を休もうか、という私のわがままは許されません。また見守り活動は責任であると同時に、私の利益でもあります。私自身の生活習慣や心身の健康に良いことを認識しています。しかし自分の気分だけで楽をしたいと思う時もあります。そんなわがままは他者(子ども達)への責任を自覚することによって克服できます。つまり他者への責任は自己を律する力になります。普段は、私のわがままと他者のどちらを優先させようかと迷うことなく、無意識の日課として行動します。ただ迷う可能性がある場合には、コミュニティ(他者)との繋がりが自己を律する力になると思います。
私は週に四日くらいプールで泳いでいます。それは水泳が好きだからというより、健康維持に良いと思い“努力”しているのです。家を出てプールに行く時は、今日は〇〇だから休もうか、と迷いが生じることが多くありました。なぜならプールで泳げば息が切れるし、正直それは苦行に近いものです。(因みに苦しくない運動の毎日のウオーキングに迷いはありません。)しかし迷いを振り切り、スポーツジムに出かけて泳ぎ終える頃には、今日も泳いで良かったと思います。だから迷っても水泳を続けてきました。ところが、プールへ出かける時の心の迷いは続き、迷いがあれば煩わしい葛藤も続きます。迷いがあるのは、泳ぐ自由も泳がない自由も、両方があるからです。泳ぐことが職業であればそのような自由はありません。両方の自由があるから迷うのだから、「泳がない自由はない」と私は考えるようにしました。
先ず運動をして健康を維持することは、私の自由な選択ではなく他者への責任であると考えます。その他者とは、高齢者の私が病気になったら、介護に携わるかもしれない家族、つまり妻や子どもです。家族が困らないために、私は健康を維持する責任があります。健康維持は私の“自由”な選択ではなく、他者に対する“責任”であり、選択の自由はないと考えます。健康維持は、私が不健康になって苦しまない、という私自身の利益にも合致しています。だから「自分と他者のために」迷う余地はないと考えるようにしたのです。ここで「自分のため」の方は、横着心に負けて自分で放棄する可能性があるので、やはり「他者のため」という責任が律する力は大きいのです。実際にスポーツジムの友人は、家族や子どもに介護などの迷惑をかけたくないから、運動に精を出していると口をそろえます。
家族は最も小さなコミュニティでしょう。このように家族やコミュニティとの繋がりは自己を律するものです。夫婦においてパートナーの健康への気遣いもそうでしょう。高齢夫婦の片方が亡くなった後、残されたパートナーの生活習慣(睡眠や食事)がいい加減になり、健康を害することはよく聞く話です。
もっと大きなコミュニティや社会と個人の繋がりを考えると、他者への責任あるいは貢献が個人の努力を促すことは無数にあります。一般に「世のため人のため」に志を立て目標を掲げて、その実現に向けて努力する人は多くいます。人の生き甲斐の多くはそのような生き方から得られるものでしょう。(中島正博)