
今年も東日本大震災が起きた3月11日を迎えて、追悼式典の実況とともに14年後の被災地域の復興の現状について報道されました。
この震災による避難後の生活は、①全国への遠距離避難、被災地域周辺の②仮設住宅への避難、③復興住宅の居住、原発被災地では④出身地への帰還などです。現在も避難している人たちは2万7600人です。被災者が移り住んだそれぞれの地域で、孤独に耐えて暮らすには「コミュニティづくり」が必要でした。この記事では2つの事例について仮設住宅の避難住民が繋がりコミュニティをつくった経緯を紹介します。次回以降に掲載する記事では、全国に遠距離避難した人たち、復興住宅に移り住んだ人たち、帰還した人たちによるコミュニティづくりの事例を紹介します。
NHK地域づくりアーカイブスの中から、震災が起きた翌年と5年後に放送された石巻市の2つの事例を選んでその要点を紹介します。
分断されたコミュニティを交流で再び繋ぎ孤独を防ぐ(2012年):宮城県石巻市ではボランティアナースの会「キャンナス」が牡鹿半島の21か所に点在する仮設住宅で活動しました。キャンナスは仮設住宅や一軒家の住民を訪ねて看護活動を行い、集会所でのお茶の会や新たな交流拠点を設けて、住民たちの交流を促進して、震災で分断されたコミュニティ再生のきっかけづくりをしました。
仮設住宅で被災住民のコミュニティをつくる(2016年):石巻市の「地域福祉コーディネーター」は長期的に被災者に寄り添いながら支援する活動をしました。住民の不安や困りごとを聞き、孤独死などを未然に防ぐことが目的です。さらに仮設住宅でお年寄りたちの交流やコミュニティづくりを促進しました。バラバラになりがちな縦割り行政やさまざまな団体の支援を結び付ける役割をコーディネーターは担いました。
事例の詳しい内容をさらに読みたい方は続けてお読みください。仮設住宅の避難住民は具体的にどのような苦労を経験して、支援者たちと共にコミュニティづくりをしたのでしょうか。NHK地域づくりアーカイブス動画を再生して、その解説や音声の会話を筆者が文字にしたものを以下に掲載します。(文章は当時の音声のままに現在形で書かれています。)動画(視聴5~10分程度)にはそれぞれのリンクからアクセスできます。
これらの事例は震災が起きて、人びとが被災地から避難し、被災地の復興に向けて地域社会が変化してゆく、その過程の一時点の出来事です。それは震災間もない2012年と5年経過した2016年にNHKで放送された時点でした。従って2025年の現在の時点では、当然過去から変化が起きていますが、過去の出来事のその先に現在があるので、過去にどのような経緯があったのか、被災地のその歴史を知ることは大切でしょう。それは私たちが近い将来に経験することかもしれません。事例は過去に放送された時点で進行中の報道の内容です。現在それぞれの地域の状況は変化していることにご留意ください。他の事例も参照したい読者は私の記事「防災減災のための地域づくり No.4災害復興へコミュニティづくり」の中の「Ⅳ 災害復興へコミュニティづくり」➡「A. コミュニティづくり」をご覧ください。
分断されたコミュニティを交流で再び繋ぎ孤独を防ぐ(2012年)。
東日本大震災による死者・行方不明者数が市町村単位で最も多かった宮城県石巻市。石巻市では看護師が中心の団体が活動した。全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」。震災直後から石巻市の避難所に入り、看護活動や無償のリハビリ支援などを行ってきた。現在の主な活動地域は市の南東部の牡鹿半島。21か所の仮設住宅が点在する。キャンナスは行政から2つの事業の委託を受けた。看護師が行う健康相談支援の事業と理学療法士/作業療法士が行うリハビリ支援の事業。
キャンナスのメンバーで作業療法士の野津さん。野津さんは仮設住宅や一軒家にリハビリが必要な人はいないか訪問して調べている。この地域には特有の課題がある。牡鹿半島の海岸沿いに繋がっていた地域コミュニティが震災で分断された。8世帯の仮設住宅の地区を訪ねた。牡鹿半島では小規模の仮設住宅地区が多く移動が大変。車がないと食糧を確保するのも大変な状況。環境面で生活上の不利がある。震災前は近隣の浜の人たちとも交流があった。仮設住宅は浜ごとに海岸から離れて立っている。この8世帯は元の大きなコミュニティから孤立しており、他の浜の人たちと交流しにくくなった。「本当に寂しい」と住民が言う。「小さな仮設の地区には談話室など集まれる場所がない。今までの生活環境と異なるので、生活自体に戸惑いを感じている人が多い。声掛けをして外へ出るきっかけ作り、家にいる時間から抜け出して、ふっと息の抜ける時間を作れるように関わっている」。
牡鹿半島月浦地区の被災を免れた在宅のお年寄りの家に、キャンナスのメンバーが迎えに来た。仮設住宅の人だけでなく、一軒家で周囲から孤立しがちな人たちにも外出の機会をつくっている。双方が交流できる場を設けることが、地域のコミュニティ再生のきっかけになる。地域の集会所で行う「お茶っこ飲み会」。リハビリ体操や看護師の健康相談。「集まれる場所があるのは最高だ、家にじっとしているよりも楽しみだ」。「お茶っこ飲み会」を通じて、みんなが集まれる場所の重要性を感じたキャンナスのメンバー。仮設住宅の談話室や集会所以外にも自由に過ごせる場を作った。それが「おらほの家」。地元の保健師やケアマネと相談しながら、いつでもお年寄りが来られる地域交流の拠点を運営する。月2回、地域の人たちに無料で開放する。キャンナスのメンバーが参加希望者を車で迎えに来る。牡鹿半島のあちこちから参加者が集まる。何をして過ごすかは自由。それぞれが思い思いの時間を半日ここで過ごす。「『地域のリハビリ』の意味は病院とはまた違う。参加や活動がキーワード。皆さんとコミュニティを一緒に作って行きたい」と作業療法士の野津さんは言う。
仮設住宅で被災住民のコミュニティをつくる(2016年)。
震災から5年半後の宮城県石巻市。多くの人が復興支援住宅へ移り住んだが、まだ6000人以上が仮設住宅に住んでいる。「地域福祉コーディネーター」の谷さんは仮設住宅に通って住民とのコミュニケーションをとり続けてきた。仮設住宅の集会所で開かれた食事会。お年寄りたちの交流を活性化させようと定期的に実施。もともと保健士や行政主導によって行われていた食事会だが、それを止めることになった時、まだ必要なこの会を自主的に続けるよう住民たちに継続を促した。住民の本音を聞き出すためには、何度も足を運び信頼関係を築くことが大事。
復興住宅には友達がいないので、仮設住宅の住民たちはここから出るのが寂しい。別々の地区からバラバラに来た人たちがここで仲良くなった。石巻で地域福祉コーディネーターが誕生したのは、2013年にお年寄りの孤独死が社会問題になり、仮設住宅をめぐるさまざまな課題が浮かび上がったから。地域福祉コーディネーター誕生の決め手はボランティアからの報告書。心に傷を負った子どものケアやお年寄りの話し相手など、その場限りの支援では解決できない課題が報告書に記されていた。被災者に寄り添いながら長期的に支援を続ける必要がある。その役割を担うのが地域福祉コーディネーター。
住民の不安や困りごとを聞き取り、孤独死などを未然に防ぐ目的。現在13人が活動し平均年齢は30代前半。お年寄りにとっては孫の世代。コーディネーターたちが話し合いをする。地域に出て現場で悩んだりするが、みんなで話し合い相談して意見をもらうと、地域で活動する時に役立つ。石巻の復興を目指す関係団体にとって、地域福祉コーディネーターは団体の垣根を越えて問題の解決を促す、言わば橋渡し。生活弱者支援NPO、復興庁職員、高齢者生活協同組合、コミュニティ支援団体などのNPOの意見交換会にコーディネーターが出席して、自由な意見交換会が行われる。行政や支援団体を結び付けて、次々に住民の要望を実現させた。例えば健康相談を仮設住宅で行っても人が集まらないため、漁業協同組合の職場で健康相談会を開き、行政の保健士がそこに出向いた。NPOと仮設住宅の自治会を結んで、住民も参加して子供の遊び場を作った。仮設住宅から復興支援住宅への転居が進んでいるので、新たなコミュニティづくりが求められている。コーディネーターたちは復興支援住宅で住民を孤立させない方法を考えている。住民と信頼関係を築きニーズを拾い続けている。