
東日本大震災後に集団移転をした住民による、新たなまちづくりの活動について紹介します。事例1では宮城県の岩沼市沿岸の玉浦6集落と、事例2では女川町竹浦地区の二つの地域の事例は以下の通りです。
事例1:かつての集落の住民が新しい町を共に構想して移転(2014年)宮城県岩沼市の中心部にある400戸近くの仮設の住民たちが集団移転の主人公です。ここに暮らしているのは津波の前まで、岩沼市の沿岸部の玉浦の集落に住んでいた人たち。およそ1,700人の住民のうち118人が津波で命を落とした。「もう家も全部、すべて流されました。家族も流された。今まで一緒にいた人たちと共に暮らしたい。それだけです」。津波で家を失った住民たちの多くは、避難所に身を寄せて、その後仮設住宅に移った。
集団移転の話を行政から打診されたのは、津波から3か月後の2011年6月のこと。国の集団移転事業の仕組みは次の通りです。移転の対象は元の住宅があった地域で居住は危険と認定された人たち。その5戸以上が一緒に移転することが条件。自治体が元の住居の土地を買い上げ、それが住民の自宅再建の資金になる。移転先は住民の合意を得て自治体が決定。国の補助金を受け自治体が造成し、住民に売却あるいは借地として貸し出す。そこに集団で移転して家を建てる。持ち家を望まない人たちには、自治体が災害公営住宅を建設する。岩沼市玉浦では、集団移転を希望した人の半分が災害公営住宅、3割が土地を借り、1割が分譲を選んで家を建てると決めた。津波で家も財産も失い、厳しい生活の中でローンを抱えての再出発である。
2011年の秋、玉浦公民館に仮設住宅の住人たち50人が集まった。移転先にどんなまちをつくるのか、住民たちが話し合い、自治体とも合意しなければならない。市は先ず住民同士で話し合う場を設けた。このやり方は他の集団移転とは大きく異なるものだった。多くの地域では自治体がまちづくりの青写真を作り、住民に意見を求める。一方、岩沼では白紙からスタートした。しかも自治体は最初話し合いにも加わらず、住民同士の議論に委ねた。何を大事にしてまちをつくるか話し合う。イグネと呼ばれる防風林など故郷の自然を蘇らせたい、新しい町でも地域のコミュニティを大切にしたいという意見。浮かび上がってきた意見は、どれもかつての集落の良さを残したいというものだった。
2012年6月、岩沼市の集団移転事業は新たな段階に入った。市がまちづくり検討委員会を設置。各集落から3人ずつ代表が集まり、住民と市が初めて同じテーブルに着いて話し合う。石川さんなどの専門家も加わった。毎回テーマを決めて計画を詰めていく。議論してきた住民たちはすでに自分の意見を持っていた。昔の集落の道は曲線が多かった。市はかつての集落のような曲線の道路を受け入れた。さらに災害公営住宅と周りの住民が接しやすいように配置を変更した。第9回検討会で市は議論の成果を一つの模型にしていた。かつての記憶を留める新しい町が出来上がった。2012年8月に工事が開始した。集団移転事業の中では最も早く、岩沼市はトップランナーになった。(NHK動画リンク:「住民が議論を重ねて集団移転・まちづくり」)

事例2:移転する予定の女川町の住民が中越地震で集団移転をした人々に学ぶ(2015年)宮城県女川町竹浦地区の仮設住宅。竹浦の人々は今30か所以上に別れて暮らしている。仙台市で看護師として働くひろ子さんは、月に2度家族の住む仮設住宅を訪れる。ひろ子さんの母と父と祖母が仮設に住んでいる。震災後、竹浦の住民には内陸に移転するプランが示された。もっと住民の気持ちをプランに反映したい、とひろ子さんの父親は新潟へ視察に向かった。訪ねたのは中越地震の被災後、自ら集団移転を実現した十二平集落の人々。どのように集団移転を進めたのか、移転先の人の家に泊めてもらい、一晩中話をした。「行って話した時、分かってくれた」と父。自分から行動を起こせば、納得のいく復興計画は実現できる。竹浦の高台に集団移転するプランを独自に立案し、故郷の再建に踏み出した。「新潟への視察は無駄ではなかった。いま生きている。家はまだ建たないけれど希望がある」。「新潟の人々は大変な災害を乗り越えて、今を過ごす大先輩たちだ」と父は言う。
新潟県小千谷市では新潟地震の際に、人口の7割が避難を余儀なくされた。十二平集落は12km離れた山の麓に集団移転をした。竹浦で新聞を作る鈴木ひろ子さんは、集団移転に向けて、集落の繋がりを保つヒントを得たい、と新潟を訪ねてきた。十二平集落の集団移転を取りまとめた鈴木俊郎さんが、移転する際に気を配ったのは新しい家の配置。人通りの多い道に高齢者の世帯を置き、若い世代が通勤・通学の時に様子を見られるようにした。このように移転先でも集落の結びつきを守る工夫をした。地震直後から、山深い十二平を出るか残るか、仮設住宅で話し合いが重ねられた。最も大切にしたのは人と人の繋がり。全員で山を下り、第二の故郷を作ることを決めた。「みんなが別々の場所に住むよりは、同じ土地を買ってそこへ家を並べるのが良い。今まで一緒に仲良く住んでいた人たちがバラバラになって、隣は知らない人になったら、集団移転の価値がないと思う」と鈴木俊郎さんは言う。(NHK動画リンク:「集団移転先で地域のつながりを取り戻す」)
二つの集団移転の事例から分かること:岩沼市沿岸地域の人たちは、震災後同じ避難所に集まり、仮設住宅に一緒に入居して、コミュニティの団結力が保たれました。それが移転場所の決定やまちづくりに当たって、住民参加と合意の力になりました。故郷にあったイグネなどの自然を蘇らせ、曲線の道路を好み、コミュティを大切にするまちづくりのレイアウトを選びました。甚大な喪失を余儀なくされた被災者には、人と人の繋がりや故郷の自然がとても大切であったことが分かります。最初は行政が関与せず、町のイメージづくりを住民の話し合いに任せた、行政の方針も賢明であったと思います。後日の報道によれば、玉浦西地区の住民は阪神大震災の復興を参考にしながら、まちづくりを進めたようです。
集団移転をする女川町竹浦の人たちは、自分たちの気持ちを移転計画に盛り込み、自分たちが納得する集団移転にしたいと思いました。集団移転の経験者の話を聞くために新潟を訪問しました。過去に新潟地震と集団移転の苦労をした人たちと、集団移転に直面している女川町の人は、大いに心が通じ合ったようです。新潟の人たちは集団移転に際して、もとの十二平集落の人びとの結びつきを守ることを、最も大切にしたようです。事例1の岩沼市玉浦と事例2の女川町竹浦ではともに集団移転に際して、移転をした被災集落の人と人の繋がり、すなわちコミュティの結びつきを大切にしたことが分かります。そしてそれぞれ過去の神戸や新潟の被災経験から学びました。
宮城県の各地域の防災集団移転促進事業の進捗状況データがHPに掲載されています。宮城県12市町195地区の集団移転の土地造成工事は2014年3月から2019年5月までに完了しています。事例1の玉浦地区は2014年4月18日、事例2の竹浦北地区は2017年3月14日に完了しています。
上記の事例1と2の記述は、NHK地域づくりアーカイブスの動画を再生し、その解説や会話の音声を筆者が文字化した文章を作成して、それをこの記事で読みやすくするために短縮して掲載しました。もとの長い文章はこちらに掲載されています。(中島正博)