SDGsの達成(2)~地球環境危機と資本主義

インドネシア・ジャワ島の農地浸食
インドネシア・ジャワ島の農地浸食

迫りくる地球環境危機!それはどこかよその星のことでしょうか。それは聞きたくない嘘の話であるかのように、私たちの日常に危機感はあまり感じられません。約半世紀前の1972年にストックホルムで最初の「国連人間環境会議」が開催されました。同年にローマクラブの報告書「成長の限界」が発表されました。その後も国連の主催によって、気候変動対策や海や陸の豊かさを守る数多くの国際会議が開催されました。そして現在、2030年までのSDGs「持続可能な開発目標」は気候変動対策や海と陸の生態系に係る目標も掲げています。そして他方で、地球温暖化を象徴する数多くの現象―例えば、海や陸の生態系の変化、大規模な森林火災、気象災害など―が報道されています。環境問題の深刻化に反して、社会の環境意識は希薄化してきたのかもしれません。

大量生産・大量消費の私たちの生活様式が、全体として省資源化してきたようにも思えません。逆に、ネットショッピングで商品を宅配便で届けてもらい、新たなCO2を増やしています。スマホもPCも何年か使えば新しいものに買い替えます。スーパーにはプラスティックで過剰包装された食料が氾濫しています。私たちにはそれを購入しない選択の余地はありません。スマホのような高価な商品でも、たちまち社会生活の必需品になってしまい、それを購入するようにDXが仕向けます。廃棄までの時間の長短はあっても、間もなくすべてがゴミになります。

<消費者が生産者に抵抗できない>この世界で何が起きているのでしょうか?私たち消費者はモノやサービスを生産する資本に、身も心も取り込まれてしまったのかもしれません。生産者(資本)が提供する、モノやサービスの魅力や便利を受け入れたのです。自由主義経済のもとで、生産者は競争に勝ち残るために、利益を拡大できて売れるものは何でも商品化して売ろうとします。人の生老病死に係るものから、日々の家事や買い物、余暇活動に至るまで、生活を便利に楽しくするものなら何でも商品にします。省エネや省資源もSDGsでさえも販売促進に利用できます。しかし生産者に悪意はなく、それは現在の資本主義の世界経済の中で生き残るためです。

このような地球環境危機や経済格差など資本主義の矛盾が現在一層明らかになっています。その資本主義を超克するために多くの主張がされています。経済人類学者のジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』(2023、原著は2020)と経済思想家の斎藤幸平著『人新生の「資本論」』(2020)の二つの本を読みました。二つの著書に共通する多くの議論のうち論点を、「資本主義は希少性や欠乏を生み出す」、「資本主義は成長が本質」、「経済成長主義は持続可能か」、「ポスト資本主義のイメージ」、最後に「ポスト資本主義への道」について、両者の文章や言葉を借りながら紹介します。

<資本主義は希少性や欠乏を生み出す>資本は社会に希少性や欠乏状態を作って、消費を促すことで成長します。先ず16~18世紀にイギリスの富裕層は共有地(コモンズ)を囲い込んで、農民の生産手段である農地へのアクセスを制限しました。すなわち生産手段の欠乏状態を富裕層は人為的に作り出しました。農民は食べる糧を失い、賃金労働者化して、お金を稼ぎ商品を買うという、資本主義の前提条件ができました。そして現代では、利便性追求の文明が資本主義の発展に貢献しています。便利な道具やサービスが創り出されると、消費者は現状に不便(欠乏)を感じて、創り出された道具やサービスを購入します。その道具を持っている人が現れると、持っていない人が欠乏感を生じて欲しくなります。さらに広告は欲望や欠乏感を刺激します。このように資本による新たな道具やサービスの生産は止むことが無く、消費者の欲望や欠乏感も止みません。資本主義こそが希少性を生み出すシステムです。資本主義について考え直してみる必要がありそうです。

<資本主義は成長が本質>資本主義の鉄則は利益(儲け)を出して、成長するために再投資することです。資本家にとっての利益は、再投資してさらなる資本を生み出し、成長するための資本です。古来の経済活動は人間の必要を満たすためですが、資本家にとっては成長のための利益を生むことが目的です。つまり資本主義は成長主義を内包しています。

<経済成長主義は持続可能か>それでは経済の成長主義は持続可能なのでしょうか。ローマクラブは経済成長主義に警鐘を鳴らしました。経済成長主義は地球の限られた資源を食い潰しています。資源の採掘や商品の生産・廃棄の過程で海や陸の生態系を破壊します。生態系のみならず、人的資源も劣悪環境の中や長時間労働で酷使しています。成長主義は常にGDP(国内総生産)の成長を目指します。GDP成長率は前年比の複利ですから、年3%の成長の場合、23年間で総生産額は倍の急上昇になります。しかし地球の資源は限られているので、経済成長を永遠には続けられないことは、誰にでも分かります。

しかし成長主義に囚われた人たちは、「グリーン・エコノミー」や技術革新に望みを託します。仮に「緑の経済」や技術革新が進み脱化石燃料が進んだ場合、日本は2030年にCO2を2013年度比で半減させ、2050年までにゼロにできるでしょうか。経済成長がさらに続けば、経済活動全体の規模が大きくなり、生物資源や鉱物資源などさまざまな資源の採取も増えます。それら資源の採取・運搬・生産・利用・消費・廃棄などに化石燃料がさらに必要になり、その結果CO2の排出は増大し削減は困難になります。経済成長を続ける限り、世界のCO2削減目標を達成する可能性はないようです。そして地球環境の限界は間近です。「脱成長」が必要です。

<ポスト資本主義のイメージ>それはコモンズの公共財を創り出し拡大することです。「コモン」とは「共」と呼ばれる考えであり、社会的に人びとに共有され、管理される富のことです。長い人類の歴史においては、人間の生活に必要な富のコモンが、地域の共同体で提供されていました。現代の市場原理主義のように、資本があらゆるものを商品化するのではなく、社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもなく、第三の道としての「コモン」は、市民が水・電力・交通、住居、医療、教育といった領域の、社会インフラや社会制度を「共有財(コモンズ)」として、自分たちで民主的に共同管理することを目指します。このコモンの領域を拡張して、商品化された領域が減少すれば、GDPは減少し「脱成長」が実現します。

資本が成長するために、欠乏や希少性が創出されるのだから、人為的に創出された欠乏を「逆行」させれば、すなわち再びコモンズを創出すれば、資本主義を超克し経済成長を不要にできるはずです。公共サービスを脱商品化し、共有財のコモンズを拡大し、所得を増やす必要が無いようにして、労働時間を短縮し、不平等を減らすことによって、人びとは必要なものにアクセスできるようになります。消費者に欠乏を生み出すために創られた、不必要なモノの生産は減り、不必要な消費への圧力も減ることが期待できます。資本主義のエンジンである欠乏を解消して、資本主義を超克するのです。そうすれば資源の消費が減り、地球環境危機を克服することが可能になります。

<ポスト資本主義への道>以上の論点は斎藤もヒッケルも議論はほぼ共通しています。ポスト資本主義への道について両者の主張は多少異なります。ヒッケルは大量消費を止める「非常ブレーキ」として、比較的に実行しやすい、次の五つの具体的なステップを提案しています。ヒッケルの文章を借りながら紹介します。

第一に計画的陳腐化を終わらせる。利益を優先したい企業は、比較的短期間で故障して買い替えが必要になる製品を作ります。第二に広告を減らす。製品の有用性を消費者に知らせる広告は意味があります。しかし、人びとの心に不安の種をまき、その不安を解消するものとして製品を紹介する、という類の心理操作をする有害な広告はすでに氾濫しています。第三に所有権から使用権へ移行する。資本主義にはモノを所有するという非効率があります。私たちが購入する商品の多くは、必要ではあっても、たまにしか使用しません。そのモノを人びとと共有して使う「使用権」へ移行すれば、私たちは資源とお金を節約できます。その具体例はシェアリングエコノミーです。

第四に食品廃棄を終わらせる。これはSDGsのターゲットにも含まれています。毎年、世界で生産される食品の最大50%が廃棄されています。「脱成長」の観点から言えば、食品廃棄を終わらせることはすぐに実施できて、利益が大きい。第五に生態系を破壊する産業を縮小する。これもSDGsのターゲットに含まれています。この典型例として牛肉産業があります。世界の農地の60%近くが牛肉を生産するための牧草地や飼料を生産する農地として使われて、森林破壊の最大の原因になっています。

以上は大量消費を止める「非常ブレーキ」ですが、資本主義を超克するための「道程」ではありません。その道程に係るヒッケルの文章を引用します。「誰一人として、ポスト資本主義経済のための簡単なレシピを提示することはできない。結局、それは集団のプロジェクトとして進めていくべきなのだ。どうやって実現するかについては、社会正義や環境正義を求める歴史上のあらゆる闘争と同じく、社会運動が必要とされるだろう。社会運動を起こすには地域社会の組織化というハードワークが求められる。ポスト資本主義経済への旅は、この最も基本的な民主主義的行動から始まる。」さらに人間と自然の関係の思想として、ヒッケルはルネ・デカルトの二元論による「人間と自然の分断」を批判して、生命世界の繋がりを含むアニミズムの思想を重視しています。

斎藤の主張はマルクス主義に立脚しています。ヒックスと異なり、より経済社会全体の変革を意識した原則に係る方針と言えるでしょう。但し「使用価値」に言及しているのは、両者に共通しています。マルクス主義は旧来の脱成長派のように消費の次元ではなく、生産の次元に注目します。なぜなら消費の次元、例えば節水、節電、菜食をして、中古品を買い、モノをシェアするというような、ライフスタイルの自己抑制の運動は、気候変動という巨大な問題を前にして、自分一人では何もできないと、人びとを悲観的にさせてしまうからです。そしてこの記事の冒頭に書いたように、資本に取り込まれてしまいます。斎藤は資本主義を超える経済について、カール・マルクスの思想に基づきながら、生産過程に関して五つの「脱成長コミュニズムの柱」を述べています。斎藤の文章を借りながらそれを以下に紹介します。

第一に使用価値経済への転換です。人びとの基本的ニーズを満たす「使用価値」に重きを置いた経済に転換します。逆に削減するべきは、「使用価値」ではなく儲けることが目的の商品の生産です。その結果、大量生産・大量消費から脱却します。第二に労働時間の短縮です。労働時間を削減すれば、生活の質を向上させることができます。使用価値経済への転換によって、金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らせます。第三に画一的な分業の廃止です。画一的な労働をもたらす分業を廃止すれば、労働の創造性を回復できます。なぜなら、労働のマニュアル化は作業効率を増大させる一方、労働者一人ひとりの自律性と創造性を剥奪するからです。

第四に生産過程の民主化です。使用価値に重きを置きつつ、労働時間を短縮するためには、生産において労働者たちが、民主的な意思決定権を握る必要があります。生産過程を民主化すれば意思決定は減速しますが、それは必要な代償でしょう。第五にエッセンシャルワークの重視です。使用価値経済に転換すれば、労働集約型のエッセンシャルワークが重視されます。一般に、機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を、「労働集約型産業」と呼び、ケア労働などはその典型です。社会の再生産にとって必須な医療、教育、保育、運輸、物流、小売業、公共機関などもそれに該当します。脱成長コミュニズムはこの労働集約型産業を重視する社会に転換し、それによっても経済は減速しGDPは減少します。以上が斎藤の主張です。

<漸進的な社会改革>ヒッケルと斎藤の主張を紹介しました。現代の資本主義経済の欠点を経験している私たちから見れば、両者共にほぼ妥当な内容ではないかと思います。斎藤の五つの柱はマルクス思想に由来していますが、現代の資本主義経済の欠点を克服する原則として、その由来に関係なく妥当でしょう。マルクス思想には異なる解釈があり、その解釈が社会の分断を生む可能性があるし、マルクス思想そのものに拘る必要はない、と私は思います。マルクス思想をよく知らない私が言うのは恥ずかしいのですが、将来社会の設計図のようにマルクス思想を参照するのは疑問です。設計図に合わせるべく人間社会の制度を切ったり貼ったりするのでなく、社会の実情に応じて徐々に改革してゆくことが必要でしょう。目的は言うまでもなくより良い社会を築くことであり、マルクス思想の実現ではないからです。資本主義経済の欠点を経験している人びとが、民主的な熟議によって、現在の社会を漸進的に改革すべきではないでしょうか。そこにはマルクス思想と共通する点もあるでしょうし、マルクス思想にないこともあるでしょう。

資本主義を超克するなら、その先は何かという疑問が自然に起きるでしょうが、その先の全体の設計図は無くても、変えるべき部分を民主主義に則って改革すべきである、と私は思います。逆に全体の設計図を望むのは機械論的な発想でしょう。人間社会は機械論的ではありません。ヒッケルの「非常ブレーキ」の改革に明確に反対する人はいないはずだし、すでに世界の各地はそのような改革の途上にあります。但しスピードアップが必要でしょう。今の若い世代はモノを買わなくなった、消費離れしていると言われています。もしそうであれば、資本主義の前提はすでに崩れつつあり、資本主義はこの先あまり長続きせず、脱経済成長社会への変革は、古い世代が考えるほど困難ではないかも知れません。

<コミュニティづくり>ヒッケルは社会変革のためには「社会運動を起こすには地域社会の組織化というハードワーク」が必要だと主張します。シェアリングエコノミーの発展にもコミュニティづくりが決定的に重要です。気候変動が進行すれば、世界には環境難民が増え、食料危機などの危機的社会を迎える可能性がある、と斎藤は考えています。次のように著書に書いています。コミュニティづくりに関連するので引用しておきます。「なぜコミュニズムなのか。極右の自警団やネオナチのような過激派、マフィアが支配する野蛮状態を避けようとするなら、コミュニティの自治と相互扶助が必要となるからである。生活に必要なものを、自分たちで確保し、配分する民主的方法を生み出さなくてはならない。来るべき危機に備えて、平時の段階から自治と相互扶助の能力を育んでおく必要がある。」

今回は長い記事を読んでくださりありがとうございました。(中島正博)
*参考資料:私はこのサイトにコモンズに関する幾つかの記事を掲載しています。コモンズの概念に関する記事は、2017年9月「『シェアリングエコノミー』~その起源と地域コミュニティの役割」です。また2018年5月から10月まで掲載した記事では、現代の世界の諸都市において、地域コミュニティがコモンズの創造のために活動している事例を紹介しました。2020年8月には「私がコミュニティづくり研究を始めた経緯(2):持続可能な資源利用と社会関係」と題して、広島市立大学で2016年1月に実施した私の最終講義のスライドを掲載しました。

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